バレンティーノ・ロッシは鈴鹿8耐が大嫌い!

第41回 鈴鹿8時間耐久ロードレースの開催日が近づき、各方面で盛り上がりを見せています。

日本メーカーにとっては、威信をかけた戦いの舞台であり、過去には日本の4大メーカーがファクトリー体制のチームで挑み、鈴鹿を走る地元のエキスパートライダーに加え、MotoGP、WSBK、BSB、国内選手権から最高のライダーが召集され、さながら バイクの異種格闘技戦 と言っても過言ではありません。

鈴鹿8耐のエントリーリストを見るだけでもファンにとっては嬉しいもので、2015年の第38回大会からは、ヨーロッパのテレビ局 EURO SPORTSが世界84カ国に生中継でレースを配信し、SUZUKA 8 HOURSは更に世界的な注目を集めています。

日本や世界で、とても名誉あるビックレースに成長した鈴鹿8耐なのですが、生きる伝説ことバレンティーノ・ロッシは鈴鹿8耐が大嫌いだそうです。

彼の執筆したバレンティーノ・ロッシ自叙伝に鈴鹿8耐の事について書かれていますので、紹介したいと思います。



バレンティーノ・ロッシの自叙伝は2冊出版されています。
2006年に出版された最初の自叙伝には、彼の生い立ちや、125cc~250ccのアプリリア時代、GP500から4ストロークへ移行した時の事や、ライバルのマックスビアッジについて、HONDAからYAMAHAへの電撃移籍の裏事情に加え、加藤 大治郎 選手の事故など広く語られています。


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題名に「バレンティーノ・ロッシは鈴鹿8耐が大嫌い!」とありますが、子供の頃からロッシは日本びいきで、日本人ライダーが大好きで、彼らのヘルメット、ツナギ、日本製のバイクが大好きな少年でした。

そんなロッシ少年は、日本人にとって特別なレースとも言える鈴鹿8時間耐久レースは憧れの舞台だったそうです。


ロッシ本人も鈴鹿8耐は伝説的なレースと思っていて、250ccにアプリリアから参戦していた時に、丁度アプリリアからRSV1000が発売されました。
当時の技術責任者に、「アプリリアのスーパーバイクで8耐に参戦したい !」と一度だけでなく何度も ロッシ青年は懇願したそうです!


芳賀紀行 選手の乗るRSV1000mille
しかし、当時の技術責任者の返事は
「ウチのバイクは8耐に参戦したところで、8時間どころか最初の8分も持たないな!」
と言われ、あろうことかロッシは説得に行ったのに、8分持たないという言葉に納得してしまったそうです!!

そして、500ccにステップアップする時、ホンダとの契約交渉の時に、自ら"8耐に参戦させてくれる事" を条件にあげたそうです。
本当にロッシにとって、8耐は憧れの舞台だったんですね・・・



通常、この当時のWGPのトップライダーは8耐への参戦を避ける為に、ありとあらゆる言い訳を探するのが普通だったので、ホンダはロッシの契約条件に「8耐へ出場させてくれる事入っていたので非常に驚いたそうです。

そして、ロッシは2000年と2001年に参戦したのですが、ロッシは後に自叙伝で
「2度の8耐参戦がいかにとんでもない事か、本当に走ってみるまで解らなかった。
当時の僕はただ舞い上がっていた。」
と述べています。


鈴鹿8耐へ初参戦の2000年、ロッシは21歳でした。
子供の頃から憧れだった鈴鹿8耐に初参戦する ロッシのテンションはMAXで、日本への渡航の際はウーチョさんたちと"日本ツアー"と呼び、初日はドロドロに泥酔したそうです。

しかも、日本人の対応の良さに付け込んで、ホンダが用意したホテルの部屋には5人で宿泊し、何を食べようが プールを使おうが、一切お金を払わなかったそうです・・・

さらに、ヤンチャなロッシ青年達は、朝食券を持たずにビュッフェに降りて行き、列をわざと無視してドンドン割り込んでいったそうです。

ロッシ青年は、"どの程度で日本人は怒ってつまみ出されるか実験していた" そうなのですが、つまみ出されたり出入り禁止にはならず、最初は日本人の礼儀正しさに付け込んで愚弄するのが楽しかったのですが、飽きてしまったそうです。

その時の天罰が下ったのかどうかは定かではありませんが、2000年の結果は散々な物でした。

初参戦の2000年にロッシは、コーリン・エドワーズとチームを組みました。
エドワーズが第1ライダーでロッシは第2ライダーでした。
エドワーズが最初の走行を行っているときに、ロッシは日本人スタッフに呼ばれ
「気を抜くなよ!最初の転倒は大抵第2ライダーの最初の走行で発生することが多いから!」
と言われ、ロッシは「うん、わかった。注意して走るよ」と答えたそうです。
そして、ロッシの走行となり、ピットを出て直ぐにロッシはあることに気が付きます。

全体のペースが、かなり遅かったのです。

それを見てロッシは日本人スタッフに言われた言葉を瞬時に忘れ、「よっしゃ、ここから一気に抜いてやるかな!!」と考え、バイクを飛ばします!

そして、ロッシは飛ばした甲斐あり、5周目にトップへなったのですが、その直後にコケてしまいます。

損傷を治す為ロッシは一度ピットに戻り、マシンの修復後もそのままロッシが走行しました。
その後、予定の周回をロッシが走り終え、エドワーズと交代をしてロッシは点滴を受けに行きます。
(当時は水分補給の点滴がOKでした。今はドーピング扱いとなり点滴はNGです。)

ロッシが点滴を受けている最中、モニターに転倒したエドワーズがアップで映し出され、VTRの左側が大破して原型をとどめていませんでした。

それを見たロッシは大声で「よし!!」と叫んだそうです(笑)

そして、ロッシは「これで点滴とは、もうおさらばだ!!」と大声を出し、点滴の針を自分で引き抜いたそうです。



ピットへ戻ってきたマシンをホンダは諦めず修復を試みており、ロッシとエドワーズをコースに出そうと懸命に作業していました。

そんなホンダのスタッフにロッシは
「もう無理だよ。あの段階で8位だったんだからもう辞めてしまったほうがいいよ。」と言って皆を説得したそうですw



そして、翌年の2001年ですが、ロッシは 参戦前から "できれば出たくないなぁ~" と思っていたそうです。
競技に加え、長時間の移動やグランプリの間に行われるテストの為に何度も日本へ行くこともキツかったそうです。

しかし、自分から契約の時に8耐参戦を盛り込んでしまったため、拒否することができませんでした。


2001年もロッシはエドワーズとチームを組みました。
しかし、決勝日のエドワーズは日本の湿気にやられてしまい体調を崩してしまいます。
そんなエドワーズを見てロッシのメカニックのジェレミー・バージェスは「今日ばかりは、流石のテキサストルネードも そよ風になってしまったみたいだな」とロッシに呟きました。

バージェスの呟きを聞いたロッシは「頼むよホント・・・・」と答え、8耐で負けることが怖くなったそうです。

ロッシにしてみれば、嫌いな8耐に2度と出たくなかった為、2001年はどうしても勝ちたかったのです。

6セッション目が終わって、エドワーズからVTR1000SPWを受け取るときにロッシはエドワーズに「何が何でも勝つんだ!!僕はもう来年は走りたくないんだ!!」と叫んだそうです。

トップでバイクを受け取ったロッシは必死に飛ばし、2位に15秒のアドバンテージを築きます。
そして、エドワーズにバイクを渡すときにロッシは、「いいか!?絶対に勝つんだ!!失敗したら、また来年 イチからやり直しだ!!」と叫びつけたそうです(笑)

そして、直後に2位の岡田&バロス組がピットへ入ってくるのですが、リヤホイールがしっかり入ってないのに、バロスがコースへ出ようとセルスイッチを押してしまいアクスルシャフトが入らずタイムロスをしてしまします。


それを見たロッシは、相手のピットが近いのに「よし、もらった!!これでエドワーズが30秒のロスでもしない限り、大丈夫だ!!」
と大声で叫び、白い目で見られてしまったそうです。


そんなロッシにエンジニアが歩いてきて衝撃的な事をロッシに告げます。
「7時間目以降は慎重に操縦して欲しいとお願いしていたはずです。
ロッシのスプリントの様なラストスパートでバイクがまだ壊れていないのは幸運としか言う他ありません!」

その言葉を聞いて、ロッシの気は動転します。
「もしここでバイクが壊れてしまったら、来年も走らなきゃいけないのかよ・・・そんなの嫌だぁぁぁぁぁ!!!」
と脳裏で自分の声がこだまし、心臓バクバクでレースを見ていたそうです。

そんなロッシを差し置いて、最終ライダーのエドワーズは着々と周回をこなし、VTR1000SPWも最後まで持ちこたえてくれました。
ゴールラインでその瞬間を待ち、エドワーズが帰って来ると抱擁を交わし
「来年はもう走らなくていいんだ!来年は走らないぞぉぉぉ!!」
と大声で叫びエドワーズもロッシと同じように大喜びしていたそうです。



そんなロッシですが、自叙伝では鈴鹿8耐の事をこう締めくくっています。

一度のレースでこれだけ疲れ果ててしまったのは初めての体験だった。
一度のレースと言っても、猛暑と強烈な温度の中を4時間も走行しているのだ。
その時の腕の痛みは年末まで続いたほどで、回復までに何ヶ月もかかった。

2001年の8耐での勝利は大きな自信になった。
自分の中にとてつもなく強靭なものがあることを実感できたのだ。
その年、500ccは万事順調というわけでは無く、いい結果に恵まれない事も度々あったが、鈴鹿8耐ではすべてがうまく噛み合った。
8耐で勝利を収めてからは500ccでも破竹の快進撃が始まりチャンピオンを獲得した。
500cc初タイトル、史上最後の500cc王座だ。

と綴っています。

2001年のWGP500は鈴鹿8耐が終了して7戦行われていますが、ロッシは7戦の内、6勝しています。

来年は絶対に走るものか!と毛嫌いし、何とか優勝した鈴鹿8耐から、ロッシは何かを得たのかもしれませんね。



他にも、ロッシの自叙伝にはライバルの話や、移籍のこと、MotoGPの裏話や色んな話が満載で綴られています。
とても面白いので、是非一度読んでみてはいかがでしょうか?



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